三匹が行く

〈プロローグ1〉三匹が行く~鹿踊班、結成のきっかけ・仙台藩とシシオドリ~

郷土芸能の宝庫と言われる東北。現代における中心地・仙台でも、かつて鹿踊り(シシオドリ)が盛んに踊られていたことは、ほとんど知られていません。かく言う企画者自身も、生まれ育ちは仙台ですが、鹿踊りに出会ったのは大人になってから、岩手県一関市でのことでした。行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅう・まいかわ・ししおどり)の稽古を見学させてもらい、この太鼓踊り系と言われる鹿踊りが、「仙台藩発祥である」こと、現在も宮城県から岩手県南部にかかる旧仙台藩領内各地で「踊られ続けている」ことを聞き、心底驚いたのでした。

 その後、各地に郷土芸能を見に行くようになり、すっかりファンになってしまった踊り組のひとつが、岩手県奥州市江刺の、金津流石関獅子躍(かなつりゅう・いしぜき・ししおどり)です。この石関の鹿踊りは、一旦途絶えていたところを平成14年(2002年)に復活。その後、復活の立役者でもある第14代中立(なかだち=踊りのリーダー)安部靖さんが、伝書を独学で読み解き、2004年頃になって初めて、どこから伝わったか、いつ、誰が伝えたか、が明らかになりました。1700年後半から、既に石関で踊られていたことを思うと、本当につい最近のことです。

 そうしてわかった金津流獅子躍の発祥の地、とは、現在の宮城県仙台市泉区松森。偶然にも、今回同じく村人として参加している及川ひろかさんは、その、松森小学校の卒業生でした。松森小学校の目の前の山は、戦国時代、国分氏が構えた松森城 (別名 鶴ヶ城) を構えた場所で、現在は公園として整備されています。慶長元年(1596年)の国分氏没落後、戦国時代末期には伊達氏の重要な城の一つとなり、江戸時代は仙台藩の正月行事「野初・野始」(のそめ=狩猟・軍需訓練)の舞台となりました。

その松森の丘陵地帯を造成し、松森城跡を南北に挟むように、昭和51年から分譲の始まった鶴が丘ニュータウンと、昭和60年分譲開始の松陵ニュータウンがあります。いわゆる団地で育ったひろかさんに、松森で育まれた金津流獅子躍のことを、ぜひ知ってもらえたらと思いました。また、現在の松森地区を、その後も独自に研究を続けている安部靖さんとひろかさんと、共に歩いてみたら面白いのではないか、またひろかさんと同世代の、石関の若い踊り手のみなさんにも、この機会に様々な質問を投げかけてみたい、と考えました。

 もう一人、声を掛けたのは、同じく村人の曽和聖大郎さんです。曽和さんが以前「松森」と「鹿踊り」をテーマに、フィールドワークやワークショップに携わったと聞き、その際に考えたことや、今鹿踊りを踊っている人たちに聞いてみたいことが、きっとあるのでは、とお誘いしました。

3人でオンラインミーティングを重ねる中で、研究者ではない自分たちが、この短期間で出来ることは何かを考えました。当初は前述のように、松森を実際に歩いてみること、石関に稽古や公演を訪ね交流すること、その様子を映像に収めることなどを考えました。しかし、コロナ禍はますます先行き不透明になるばかりです。今回はオンラインで勉強会を開き、石関の安部さんにじっくりお話を伺うこと、その書き起こしを編集・公開することを中心に、勉強会を通じてそれぞれの視点から感じたことや、印象に残ったテーマを掘り下げ、エッセイや図説・写真の形でウェブサイトに投稿することにしました。投稿内容は小冊子にもまとめる予定です。そして、いつか松森小学校の後輩たちに、この地で生まれた金津流獅子躍について、卒業生であるひろかさんが伝えに行けたらいいね、と夢想しています。またオンライン勉強会には、様々な角度からお話を伺いたいという目的で、行山流舞川鹿子躍の踊り手で、東京鹿踊(とうきょう・ししおどり)代表でもある、小岩秀太郎さんにも加わっていただくことにし、2020年12月26日に実施しました。

金津流石関獅子躍をタイムカプセルに見立て、期せずしてご縁のできた3人の村人が、それぞれの視点から、金津流獅子躍発祥の地と、現在の躍り手と交流し、互いに対話を重ねることで、仙台や東北と出会い直してみたい。また、3 名それぞれが、考え感じたことをまとめることで、鹿踊りを様々な切り口から知り・楽しみ・探求する、その可能性を広げることができれば、というのが、この企画のねらいです。また同時に、新たな交流人口(芸能仲間)が、増えるきっかけになれば、と願っています。

鹿踊班:千田祥子