三匹が行く

〈プロローグ2〉鹿踊りとは?&金津流石関獅子躍について

【鹿踊りとは】

 鹿踊り(ししおどり)という鹿を模した郷土芸能は、東北地方に広く伝わっています。中でも、本物の鹿角を頭につけ、背にササラと言う3mほどの竹を背負い、腰に太鼓をさげた「太鼓踊系(たいこおどりけい)」鹿踊りは、仙台市から岩手県南の旧仙台藩領内にのみ見られ、行山(ぎょうざん)流や金津(かなつ)流などいくつかの流派に分かれて活動しています。8頭で踊るため八つ鹿踊り(やつしかおどり)とも言われます。陣形を組み、踊り手自らが太鼓を叩き、歌い、踊るといった、高いスキルを要求される芸能です。

 「シシ」は古語で野獣の肉のことであり、鹿踊りには人間が食物としてその命をいただく、シシへの供養の意味が込められたとも言われます。また「シシ」は神仏を守護する獅子であり、神の使いの鹿でもあります。いわば神仏の化身である、権現をまとって舞う鹿踊りの姿に、古来より人々は、神仏の存在を身近に感じてきたのでしょう。五穀豊穣・国家安穏・悪魔退散を祈念し、参集者の健康とご多幸を祈る踊りでもあり、お盆には新盆を迎えた家々を廻り「墓回向」(はかえこう、追善供養)を行うなど、暮らしの中にある踊りでもあります。

 鹿踊の表記の仕方は「鹿踊」「鹿子踊」「獅子躍」など様々ですが、読み方は全て「シシオドリ」と読みます。江刺の金津流では「獅子躍」が主に使われています。その多くは巻物(伝授書)に書かれている通りであり、各踊り組のこだわりともなっています。

【金津流石関獅子躍について】

 仙台藩伊達家に仕えた藩士・犬飼家に代々伝わる踊りは、犬飼清蔵長明 (いぬかい・せいぞう・ながあき) の代に、宮城郡国分松森村の、源十郎と嘉左衛門に伝授されました。安永8年(1779年)浦田源十郎より、仙台藩の北端に近い、江刺郡石関村の肝入(きもいり)・小原吉郎治に、伝書 「獅子躍本体之巻」「獅子躍躍之術」を添えて伝えられたのが、金津流石関獅子躍の始まりです。

 その後、寛政5年(1793年)には、仙台藩士・犬飼清蔵長明の直筆による伝書「金津流獅子躍傳授之目録」を授かり、更には享和元年(1801年)、志田郡次橋村の遠山休(久)左衛門より、伝書「獅子躍免之事」を授かりました。

 江刺の地における金津流獅子躍は、文政11年(1828年)に石関から梁川に、また明治以降、梁川より伊手・軽石・野手崎などに伝えられています。

 金津流石関獅子躍は、安永年間に伝承されてから、昭和初期まで踊られてきましたが、戦争等により昭和30年頃13代を最後に一時途絶えてしまいました。平成に入って芸能復活の機運が高まり、平成13年 (2001年) に保存会を結成。地区の若者を集め伝承活動が始まりました。約半世紀に亘る活動休止を挟み、石関の師匠は既に老齢であったため、梁川金津流鹿踊(現・金津流野手崎獅子躍) 初代 菊池司等を師匠に招き、平成14年 (2002年) に14代として復活。その後、平成23年 (2011年) 9月に相伝式が執り行われ、金津流獅子躍の一切を伝授され完全復活を果たします。平成30年 (2018年) 12月には、15代役付之儀を執り行い、現在は15代が活動しています。

*上記に登場する地名について、現在の呼称は以下の通りです。

宮城郡国分松森村=宮城県仙台市泉区松森

江刺郡石関村=岩手県奥州市江刺稲瀬

志田郡次橋村=宮城県大崎市松山町次橋

*宮城郡国分松森村との関わりを示す資料として、金津流石関獅子躍に現在まで伝わる資料の、公開許可をいただきました。「獅子躍本体之巻」(写し)には「宮城郡國分松森村 浦田源十郎」「安永八年」の文字が見えます。(資料提供:金津流獅子躍師匠 安部靖さん)

・金津流石関獅子躍ホームページ

http://ishizekishishi.flier.jp

・書籍「百鹿繚乱 えさし鹿踊図鑑」(2013年)

発行者 – 自律的まちづくりモデル創出支援事業委員会(事務局:奥州商工会議所江刺支所)

監修 – 江刺鹿踊保存会

・第3回国連防災世界会議仙台直前イベント「ひとのちから」来場者配布資料

(2015年2月1日, 会場:せんだいメディアテーク)

 主催 – 仙台市

 企画 – (公財)音楽の力による復興センター・東北

出演 – 金津流石関獅子躍ほか