三匹が行く

〜金津流石関獅子躍の生まれたところと、今、躍ること〜  ⑩ 編集後記

 不思議だ。この鹿踊りを巡るオンライン勉強会の書き起こしに出てくる一人の男、犬飼清蔵長明。

 280年ほども前に、七北田川の辺りに住んだというその男が、安部靖氏のいる石関など旧仙台藩領北部に拡がる金津流獅子躍を伝えたという。

 犬飼清蔵長明は、寛保2年(1742)に弓術や砲術を伝える足軽の家に生まれた。十代の半ばには、東北を襲った宝暦の大飢饉(1755-1757)を経験している。多雨と冷害によって引き起こされたというこの大凶作は、東北一帯に甚大な被害をもたらし、約5万人から6万人の餓死者が出たとされる。その4年後、長明の兄が三十歳で亡くなった。長明十九歳の時のことである。長明は後に犬飼家で代々襲名されてきた「犬飼清蔵」という名を継ぐことになるが、兄が生きていたならば兄がその名跡を継承していたかもしれない。犬飼清蔵を継いだ長明は、砲術等の武術に加えて、金津流の獅子躍を修め、寛政元年(1789)四七歳の時、仙台領と盛岡領の藩境、上胆沢郡相去村の番所へ足軽頭として赴任した。同年に父一長が亡くなっているが、この直前、天明3年から8年(1783-1788)にかけて、再び東北を大飢饉が襲っている。この天命の大飢饉では、盛岡藩は藩の総人口の4分の1に当たる75,000人を超える死者を出したという。

 かように犬飼清蔵長明が鹿踊りを踊った時代の東北は、天候不順や冷害、また火山の噴火による火山灰などによって、まさに飢饉また飢饉の連続であり、農民にとっては実に過酷な時代であったと言わねばならない。

 亡くなる直前まで藩境の番所で勤めた犬飼清蔵長明は、その地でも鹿踊りを伝えたようである。また、七北田川の辺りにある時には、松森村の嘉左衛門という農民に鹿踊りを伝承している。

 犬飼清蔵長明とは、一体どういった人であったのだろうか。どういった思いでシシ頭を被り、太鼓を打ち、地を踏んでいたのだろうか。松森で、赴任した地で、どのように弟子に向かい合っていたのだろうか。

 安部氏らが伝書等を読み解いたことで浮かび上がってきたこの犬飼清蔵長明という一人の男の人生が、鹿踊りという鎮魂と豊穣の芸能に生々しい陰影を与えているようにも思われてくる。今回「郷土芸能が消滅していく運命にあるかもしれない」「次の代の弟子に伝えるということ以外にない」という話もあったが、これはもしかしたら犬飼清蔵の時代もそうだったかもしれず、それはむしろ芸能が生きている証なのかもしれない。

 そして、彼が松森や石関へ鹿踊りを伝えたことで、250年以上経って、我々がコロナ禍の時代にオンラインで語り合っているのだ。いわば犬飼清蔵が繋いだ不思議な縁である。

 改めまして、今回、惜しげもなくご自身の研鑽と研究の成果をもって、様々な質問に答えてくださった安部靖氏と小岩秀太郎氏に感謝申し上げます。また、この冊子を手に取ってくださった方々との縁もまた拡がっていくことを心から願っております。

曽和聖大郎

2020年12月26日 オンライン勉強会 (zoom)  仙台・東京・横浜

 

【引用・参考文献】

・金津流石関獅子躍ホームページ http://ishizekishishi.flier.jp

・書籍「百鹿繚乱 えさし鹿踊図鑑」(2013年)

 発行者-自律的まちづくりモデル創出支援事業委員会(事務局:奥州商工会議所江刺支所)

 監修-江刺鹿踊保存会

・第3回国連防災世界会議仙台直前イベント「ひとのちから」来場者配布資料

    (2015年2月1日,せんだいメディアテーク)

 主催-仙台市,企画-(公財)音楽の力による復興センター・東北,出演-金津流石関獅子躍ほか

【資料提供】

・「獅子躍本体之巻」「金津流石関獅子躍傳授之目録」(いずれも写し・一部) 金津流獅子躍師匠 安部靖氏

発行日  2021年2月28日

監修   安部靖・小岩秀太郎

編集   千田祥子・及川ひろか・曽和聖大郎

地図制作 曽和聖大郎


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