山村の芸能

一枚の写真から (2)

1948年 北川八幡神社にて

 一枚の写真に目を引かれた。

 どうやら戦後すぐに撮られたようだが、モノも食糧もなかった時代になぜ悠長に楽器を演奏しているのか、この楽器はどこから調達したのか、見覚えのある場所だけれど誰がどんな理由で撮ったのか、そしてこれは一体誰なのかと疑問と興味がむくむく湧いてくる。

 木頭北川集落は急峻な山に囲まれ、かつて焼畑で稗や粟を作り命を繋いだという暮らし向き厳しい山村奥地である。しかしながら、かつての風景や山仕事、普段の子どもたちなど個人が撮った写真が実に多く残されている。このことは過去の戦争や社会情勢、都市部の事情によるところが大きいと聞いた。その数多の写真のなかでも、この一枚はひときわ異彩を放っている。

 戦後村人たちで劇団や楽団を作って農村舞台で披露したというのは、80歳代以上の世代の共通の思い出のようで、普段の会話のなかでもよく話題にあがってくる。そしてこの一枚は恐らくそれに関連する写真。 「わしは芝居も楽団もしたぞ」といつも懐かしそうに話す、健在されている楽団最高齢者ケイタロウさん(93歳)に話をお聞ききした。

ケイタロウさん 撮影 / げんばほのか

「これは宮で撮った写真じゃの、イク兄とヒロ兄じゃ」 先の二人の写真が撮影されたのは戦後すぐ、場所は北川八幡神社の馬場だった。青年団で楽団を作り、ケイタロウさんもトランペットを吹いていたという。 当時何万円もしたという楽器はそれぞれ自前で購入し、「山仕事をして稼いだ1ヶ月分、いやもっとじゃったか、高かったのう」と懐かしそうに笑う。

「当時の分校の校長先生が、どこから来た人じゃったか忘れたけんど、なんでも楽器ができる人での。自転車で習いに通ったもんじゃ」

「昔あった久井谷の小水力発電の小屋にいつも6,7人が集まって練習した。あすこなら、どんだけうるさくしてもいけたけん」

 演奏したのは当時流行りの演歌や馴染みの軍歌。まだ戦時色残る世相を思わせる。そして写真は北川八幡神社の農村舞台で演奏披露した際に記念として撮ったものだという。青年団では楽団の他に芝居もしており、芝居の前座として楽団が演奏したそうである。当時ケイタロウさんは20歳前後、東京での大空襲を経験して村に帰ってきたところだった。

 第2次世界大戦中、ケイタロウさん17歳の頃。村の青年学校の教師から「国のために行ってこい」と言われ、嫌々ながら消防士の試験を受けて東京に出た。制服の角帽など格好は勇しく見えたが、戦争末期の大空襲で死体を片付ける仕事ばかり。家に帰っても人が焼け焦げた臭いが手に残っているようだったという。焼い弾や不発弾の危険と隣り合わせのなか、なかには命を失った仲間もいた。

「あと1年で消防車の運転免許もとれたんじゃけんど、惜しいことしたな」と苦笑いしながら、命からがら村に帰ってきたケイタロウさんの話は戦争を知らない私にもとてもリアルにその光景を想像させた。 帰ってきてからは山の仕事に従事した。戦後の復興のために木材の需要は高まり、その後朝鮮戦争での朝鮮特需にて木材バブルの時代へと移っていく。しかしながら戦後すぐはまだその兆候が見られる程度。戦後のもののない時代、しかも山での伐採や木馬ひきなど労働は過酷であったかと思われるが、そのなかで楽器を演奏したり、芝居をしたり、ましてや楽器を買うという経済的、精神的な余裕を逆に今の時代に想像するのは難しい。

 楽団の名前は「OMG(オーエムジー)。歌い手のトミエさんはのちにケイタロウさんと結婚する。そのとき知り合って結婚されたのですかと聞くと、「さあ、どうじゃったかな」と笑ってはぐらかされた。

 そしてケイタロウさんは楽団の団員でもあり、芝居の役者もこなしていた。「役は国定忠治の悪者役やら、ほかにも女方もしたもんじゃ」

そんな話をしていたら近所のナミヨさんがやってきた。ケイタロウさんより10歳ほど若いので、子どもの頃にその芝居を観に行ったという。 「ケイ兄が舞台の袖から出てくるとき、ほりゃあ綺麗じゃった」と懐かしむ。

そして楽団から芝居の話に移っていった。

1948年頃 楽団の女子

(文章 / 玄番真紀子)