山村の芸能

芝居と鋳掛屋 (3)

 芝居はいかけや(鋳掛屋)の野口コウイチロウという人が教えてくれたという。

 「いかけや」とは、振り売りで鍋や釜を直す職人のことである。当時は鋳鉄製の鍋や釜は貴重品で、穴があいても直して使った。

 どこか村外からやって来ていた野口さんは地元の旅館に泊まりながら、「いかけや」と称して鍋を直したり、自前のロクロで子どもたちに野球のバットを作ったりしていた。そして仕事の傍ら、村の若い人たちに芝居を教えた。

 「とにかく頭のいい人で、台本はぜんぶ自分で書いて、次の稽古のときもセリフの一字一句違わんかった」。

 敗戦後、戦地や学徒動員から帰ってきた若者たちで、村はかつての賑わいを取り戻しつつあった時代。集落に組織された青年団の有志が楽団や芝居をしたのだという。昼間は仕事をして、夜になると毎日のように野口さんのところへ行って練習した。

「女方をしたときは(野口さんに)もっと声詰まらせてと叱られたな」とケイタロウさんは笑う。

 どこも同様にモノは十分になく、食料は配給制。しかしながら狭いながらも田畑はあり自給的な暮らしがベースではあったので、この山村で一番なかったものは衣類だという。ほんの10センチ四方の布が配給されて、それを継ぎ合わせて少しでも大きな布にして、また短い紐も何本も結んで長くして衣類やそれぞれの用途に使った。

もちろん衣装を買うお金もなく、

「親父の丹前借っていって汚してしかられたわだ」

「かつらも自分でシュロの芯をぬいて皮とって針金で枠こっさえて網つけての、それもいかけやが教えてくれた」

「化粧も自分でしとったらの、『ほんな化粧じゃだれも見てくれん』ていうての、しなおしてくれたわ。うさぎの手でちゃっちゃとおしろいつけて」

 ケイタロウさんの思い出す記憶は、当時の時代背景とともに色鮮やかだ。そしてモノがないなかで工夫して自由自在に楽しんでいる。

 芝居には若い男女ともが参加した。聞くとケイタロウさんとトミエさん以外に、他にも何組もカップルが誕生していて、「ああ、あの人とこの人も」と気付くと近所のご夫婦は何組も芝居の役者同士なのである。  芝居というのは口実で、実は今でいう婚活の場だったのかな、とふと思う。 そのカップルの一組、役者のなかでも「ヤスねえのお姫様役は、ほれはきれいじゃった」と皆が口を揃えて言う、ヤスコさん(89歳)に話を聞いた。

1948年頃 青年団 北川八幡神社馬場