山村の芸能

鋳掛屋の正体 (6)

1948年北川八幡神社馬場にて



冬の厳しい寒さが少しゆるんだお昼前。

「これはわしの兄貴じゃな」

ナミエさん(81歳)宅でお話をお聞きしていたら、お連れ合いのマサユキさんが写真を覗き込んだ。向かって左に立っているのはマサユキさんの兄、これまでお聞きしてきた話のなかによく出てくるお一人「イワ兄」ことイワオさんなのだという。並んで座っているのはフミオさんで、なんとナミエさんのお兄さんの女装姿。

 ご夫婦の証言で謎は一気に解決した。なんでもマサユキさんは、芝居の先生であるいかけや(鋳掛屋)の野口さんの隣の部屋で寝ていたという。マサユキさんの家は、山仕事の人たちが多く泊まる旅館をしていた。

「親父が芝居が好きやったけん、そのいかけやと話が合うて、引き止めてずっと泊めとったんじゃないか」。そしてマサユキさんのお兄さんのイワオさんは、村芝居の看板役者だったらしい。役者同士で早くに結婚しその後徳島市内へ出たためか、皆の記憶が少し薄れてしまったのかもしれない。

 マサユキさんはまだ子どもだったが、野口さんがいつも父親とふたりで囲碁や将棋をしていた光景が記憶にあり、また近所に住んでいたナミエさんも「鍋を直してたのはあんまり見たことないぜえ」と首をかしげる。確かに多くの人が、鍋より木地の仕事や囲碁将棋、芝居の練習風景が記憶に残っているようだ。

 マサユキさんによると、野口さんは戦争前までは神戸で芝居の役者をしていたようだ。戦中戦後と町で生活していくことが難しくなり、各地をまわって鋳掛屋をしながら暮らしを立てていたのだそうだ。そこへ芝居や浪花節が好きなマサユキさんの父親が意気投合。旅館に長期滞在しながら「芝居をしてみないか」と若者たちに声をかけ、素人芝居が始まった。

「よう練習を覗きにいったわ、4、5年生のかわいげな少女やったとき」とナミエさんは笑う。

 時代は戦後の混乱のなかである。 「戦争中、ようかわいがってくれたおっさんも神戸行って戦死した。たまるかの、若いのに」。ナミエさんより少し年上の女性たちも、町の工場に行かされて空襲にあいさんざんな目にあった。当時10代後半の人は村にいなかった。

「戦争が終わってなんとか帰ってきて、食べもんはなんとかあったし、畑したらなんでもできるし、人は懐かしいし親切なし。みながほっとしたんじゃないか」

   朝鮮戦争の影響で山の木が高値で売れるようになるのは、まだあと10年はかかる。当時は高知の魚梁瀬(やなぜ・現馬路村)の営林署へ山しごとの出稼ぎに行く人が多かったようで、そこで稼いできて楽器買ったのではないかとマサユキさんは推測する。

 混乱のなかにありながら、戦前戦中の閉塞感や絶望感から一気に解放された時代。そこに花開いた若者たちのエネルギー。

 そして3年くらいたつと自然と芝居は無くなった。青年団のなかで結婚してやめていく人が増えたこと、鋳掛屋さんが居なくなったこと、他所からナトコの映画(ナショナル・カンパニーの略で進駐軍による教育映画)がくるようになったこと、ラジオが普及しはじめたこと(テレビはもっと後になる)など、いろいろな要因が重なったようである。

 しかしながら、確かにその時代に若者たちが熱狂した芸能は、たった一人の伝える人とたった一人の受け入れる人があって一気に盛り上がった。それらは村の人たちの共通の思い出として記憶され、当時の暮らしとともに人々のライフストーリーのなかに色鮮やかに刻まれているのである。

 人生を思い起こすとき、芸能の役割とはいったいなんだろう。

マサユキさん ナミエさんご夫婦  2020年12月撮影 / げんばほのか

(文章・玄番真紀子)