山村の芸能

時代に必要とされる芸能 (8)

 高度経済成長期以降、集落は過疎が進み戸数も人口も激減した。先に希望を見出せない山間僻地が県内にほかにも数多くあり、行政の支援もこの最奥地には行き届かない。

 そんな中、2007年徳島県下で開催された国民文化祭で、人形浄瑠璃公演の会場の一つとして北川八幡神社農村舞台が日の目を見ることになった。芝居の舞台としては使われていなかったものの夏と秋の宮の祭りには使われおり、これまでずっと氏子たちで管理されてきた。

 過疎地の現状を憂い、しかしながら可能性も感じて、「最奥地から元気になれるように」と人形浄瑠璃の人形遣いである吉田勘緑(現在 勘緑)さんによってこの舞台が選ばれた。それ以降人形浄瑠璃に加えて日本の民俗芸能だけでなく、韓国やオランダなどのアーチストを迎えての公演が毎年開催されている。

韓国のアーチストを迎えてリハーサル 風景

 再び農村舞台が「芸能」の場として復帰するにあたって、公演を行うために舞台周りの木を切ったり、草刈りや掃除をしたりといった共同作業は地元の人たちによって阿吽の呼吸で行われた。かつてそうであったように腰に鉈や鎌を下げ、宮の階段を上がってくる。数十年ぶりの舞台公演は、みなで作り上げる舞台という感覚が呼び起こされる大きなきっかけとなった。

 そして2015年、地元の有志たちが声を挙げ、村芝居の「北川座」を再び立ち上げることとなった。このまま地域が廃れていくのを黙って見ているわけにはいかないと、かろうじて戦後の芝居の話を知る60歳代の方が若い世代に呼びかけた。当時2017年に地元の小学校が休校になることも決まっており、過疎は急速に進むことが予測される中、あえて立ち上げた芝居の一座。

 かつて神戸から訳あって四国の山までたどり着いた一人の芝居の役者と、その役者を引き止めて芝居の話に明け暮れた一人の村人、そして戦地から帰ってきた若者たちがいて花開いた村の芸能。

 そしていま生活様式や働き方が変わり、田舎とは言え人間関係も希薄になりつつある。また社会全体が不安定で個人が孤立しがちな世相である。一座が復活し、第一回目の公演は『ゴドーを待ちながら』(En attendant Godot)劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲を脚色したもので、現在の社会背景を投影したものとなった。2回目以降は地域の課題を織り交ぜたオリジナルの脚本、演出や舞台設備に至るまですべてを自分たちでおこなう。

 芸能が根付かない地域だと言われながらも、今こうして一人の呼びかけにより素人芝居が復活したということは、その時代に必要とされているということに他ならない。日常と非日常、日々の暮らしと芝居上の架空の世界はときおり重なりながら、自分たちの繋がりと足元を確かめて、未来を描くために設けられた場になっているように思う。

 これから何年続くかわからない。いったん消えてしまったとしても、必要とされたときにまた復活する日がくるかもしれない。その時に応じた理由と、たった一人の思いがあれば。

復活した北川座

(文章・玄番真紀子)

山村の芸能 〜ライフストーリーの一場面として〜(映像制作/ 玄番隆行)

参照:徳島県下の農村舞台 https://www.nousonbutai.com/ 阿波農村舞台の会HP