2026.02.25
オペラ歌⼿(ソプラノ)
2025年 第 94 回⽇本⾳楽コンクール声楽部⾨(オペラ・アリア) 第 1 位、岩⾕賞(聴衆賞)、増沢賞、INPEX賞受賞
2020年 第31回五島記念文化賞オペラ新人賞 海外研修(イタリア・ミラノ)
2019年 平成30年度文化庁新進芸術家制度海外研修 研修員(イタリア・ミラノおよびスイス・ルガーノ)
2018年 新国立劇場オペラ研修所第18期修了
⼤学院修士課程声楽専攻(オペラ)2015年修了
声楽専攻2013年大学卒業
東京音楽大学付属高等学校2009年卒業
2025年、第 94 回⽇本⾳楽コンクール声楽部⾨(オペラ・アリア)で第 1 位を受賞し、さらに岩⾕賞(聴衆賞)、増沢賞、INPEX賞を同時受賞したのは、付属⾼等学校から⼤学・⼤学院まで約 9 年間にわたり東京⾳楽⼤学で学んできたオペラ歌⼿、砂⽥愛梨さんです。 イタリア・ミラノに拠点を置き、日本と⾏き来しながら本場で研鑽を積み、⺟としての顔ももつ現在。東京⾳⼤で育まれた“根っこ”と、いまの歌につながる学びについて、じっくりお話をうかがいました。
ーまずは、⽇本⾳楽コンクールでの第 1 位と特別賞の同時受賞、本当におめでとうございます。率直な思いをお聞かせください。
ありがとうございます。⽇本⾳楽コンクールは 1932 年に始まり、⽇本のクラシック界の登⻯⾨として多くの⾳楽家を輩出してきました。歴史も規模もレベルも、国内では群を抜いています。声楽部⾨での受賞はもちろんですが、今回はさらにコンクール全部門の中から最も印象的な演奏者 1 名に贈られる増沢賞、アンサンブルとしての完成度を評価していただいた INPEX 賞、聴衆の投票によって決まる岩⾕賞まで受賞し、高い評価をいただけたのだと実感しました。声楽でこれほどの賞を同時にいただくことは珍しく、私⾃⾝も実感を掴みきれていない部分がありますが、東京⾳⼤で学んだ年⽉や新国立劇場オペラ研修所時代、その後は文化庁と東急財団よりご支援をいただきイタリアでの海外研修、これまでの舞台経験が⼀本の線で繋がったように思います。オペラ歌⼿として、また新たなスタートに⽴てたような、そんな⼿応えも感じています。
実を⾔うとコンクールの本番当⽇、体調があまりよくなかったのです。イタリアで少し⾵邪気味になり、「これ以上悪化したら、⽇本に⾏くのをやめた⽅がいいのかな…」と思うほどでした。漢⽅とイタリアの⾵邪薬を飲みながら、なんとか声帯と身体のコンディションを整えなければというレベルで。しかし、だからこそ余計な⼒みが抜けた気もします。「結果を考えず、今できる事を誠実に、丁寧にするだけ」 そう決められて集中できたのは、体調が悪かったからこその結果だったのかもしれません。

▲第 94 回⽇本⾳楽コンクール声楽部⾨(オペラ・アリア)での第一位受賞直後
ー体調不良からの“四冠”とは…まさにドラマですね。 砂⽥さんはコンクールを受ける際、どのような思いを抱いて臨んでいるのでしょうか?
キャリア=舞台経験、コンクール=チャンスを掴む機会(試験?)、という感覚が強かったですね。最近は、その 2 つがほとんど同じくらいの重みを持つようになりました。日本のコンクールは⾃分の歌を客観的に⾒つめ直す場所であり、作品に対してもですが、初⼼に⽴ち返ることのできる機会にもなりました。新しい技術や考え⽅に出会う勉強の場でもあると考えています。⽇本⾳楽コンクールは、日本のコンクールでは唯一、審査員の先生方の点数が毎日新聞に掲載されますし、東京⾳楽コンクールでは、ご講評を直接いただけるので、⾃分自身を客観的に把握することが出来ました。コンクールを通していただく⾔葉は、うれしいコメントもあれば、⽿が痛いご指摘ももちろんあります。しかし、そのどちらも含めて⾃分の中に取り込みながら、「⾃分は何を原点として歌っていきたいのか」という核が少しずつ固まっていく感覚がありました。他者の中から自分自身を照らしてみる方法です。私にとってこの方法は非常に有効で、舞台に立つ上でさまざまな役柄と向き合う際にも、客観的になれるので非常に便利なのです。そして何より自分自身という人間が磨かれていくと実感します。
―結果を競う場でありながら、勉強の機会としても捉えているのですね。声楽の学びをはじめたのは、東京⾳楽⼤学付属⾼校への進学がきっかけだったとか。
そうなんです。「声がきれいだから、受けてみたら?」と⺟に⾔われるがまま付属⾼校を受験したのがきっかけです。もともと習い事は幼少期からピアノ、クラシック・バレエ、ヴィオラ、フルート、ミュージカルや少年少女合唱団など、いろいろなことを経験させてもらった記憶があるのですが、本格的に声楽に触れるのは付属高校に入学してから。受験までの 1〜2 カ⽉間でイタリア歌曲とコンコーネを必死に覚えた記憶があります。⼊学後は、それまで知らなかった世界が⼀気に広がることに。最初の 1 年で、声を出すよろこびや、作品に向き合う奥深さにどんどん惹かれていき、気づいたら完全にオペラにのめり込んでいましたね。付属高校ではオペラの授業があり、モーツァルトの『魔笛』や『フィガロの結婚』を⽇本語訳で上演する機会がありました。⾼橋啓三先⽣をはじめ、当時の教授・講師の先⽣⽅が直接指導してくださって。厳しさも優しさも含め、⾔葉の⼀つひとつが心に残りました。「⾼校⽣でここまでできるのはすごいよ!」 と励ましてくださる⼀⽅で、「もっともっと声を前に出してごらん」と熱い指導をいただいたことも。そんな⽇々の中で、「オペラってこんなに面白いものなんだ」と本気で思うようになっていきました。私にとってこの時間はまさに青春で、今でも昨日のことのように鮮明によみがえります。
そこからはもう⼀直線です。 付属⾼校と大学それぞれの図書館は、オペラの DVD やレコードなどの映像資料が驚くほど充実していました。 興味を持ったら夢中になって、資料をどんどん借りて見ていました。全ての出発点は興味心からの”好き”だったように思います。好きだから、苦しい練習も苦悩も必要だと⾃然に思えますし、悔しい気持ちが芽⽣えることでさらに前へ進む原動⼒となります。当時から周りの⼈にはたくましいと⾔われていたのですが、⾃覚は全くありませんでした。ただ、本当に興味のあるものに対して、真っ直ぐに没頭していたのは確かです。その“好きに⼀直線”な姿勢が、今につながる⼀番の”根っこ”だと思います。
付属⾼校の⾃由であたたかい校⾵も⼤好きでした。「とにかく⾳楽を好きな気持ちを⼤切にしてよいのだ」 と背中を押してくれるような空気があって、勉強も練習も⾃然と前向きになります。同級⽣の中には、今も⾳楽の仕事でつながっている人もいますし、違う道に進んだ人も多いのに、会えば当時のまま話せる。あの 3 年間で出会った⼈たちは同志であり、今でも私の財産です。
―付属⾼校の“⾃由で豊かな経験”が一つの原点になっているんですね。続いてその後に進学した東京音楽⼤学・⼤学院での学びは、今のご活動にどのようにつながっていますか?
東京⾳⼤で過ごした 9 年間は、私にとって“⾃分という⼟台”が形成された時間でした。ひとつの歌の技術だけではなく、表現方法や作品への向き合い⽅、⼈としての姿勢まで、さまざまなレイヤーが積み重なって今の私を形成していると感じます。
まず、⾳楽の基礎⼒が圧倒的に鍛えられました。ソルフェージュや⾔語、テクストの解釈など、プロとして舞台に⽴つための⼟台を時間をかけて積み上げられたのは、⼤学時代にしっかり学ぶ環境が整っていたからだと思います。今となってはもっとできることがあったと後悔するほどです。大学時代にさまざまな経験をすること、時には思いっきり遊ぶことも大事だと思いますが、勉強することがいかに大切かを感じます。
声楽の道に進む上で“⾔葉と⾳楽をどう結びつけるか”は本当に重要で、⼤学での学びの基礎があったからこそ、その後の研修所、イタリアでの海外研修、そして研鑽にも⾃然につながっていきました。私の場合、特に大学院 2 年間という時間も、年齢的にもですが、その後外部に出る前の準備期間として重要だったと感じています。
そして、先⽣⽅の存在は常に⼤きいです。レッスンでは技術のみならず、「なぜこの⾳につながるのか」「どういう姿勢で舞台に⽴つのか」といった、⾳楽家としての核⼼に触れる指導を受けました。声楽では安達さおり先生、成⽥繪智⼦先⽣、市川倫子先生、 釜洞祐子先生、コレペティトールでは谷池重紬子先生や服部容子先生、それに演出家の粟國淳先生に今井伸昭先生など…。ここにはお名前を挙げきれません。
それぞれ違う個性、お伝えになられる方法は違えど、どの先⽣も背筋が伸びるような品格とあたたかさをおもちでした。 ⾔葉だけでなく、⾝体の使い⽅、舞台への⼊り⽅、レッスン室に漂う佇まいさえ学びの対象に。技術以上に、“⾳楽家としての美意識”を先⽣⽅から肌で吸収していたように思います。
また、専攻を超えた仲間との時間も⼤切な学びでした。弦や管、ピアノの友⼈たちとアンサンブルをしたり、お互いのレッスン後に感想を⾔い合ったり。⾃分の声だけを聴くのではなく、“全体の中でどう響くか”を考える⽿と感覚が⾃然と育ちました。声楽は⼀⾒、“個”の芸術に見えますが、オペラは非常に共同的です。仲間の⾳を聴く習慣は、今も私の歌い⽅に⼤きく影響しています。
そしてもうひとつ、東京⾳⼤の強みだと感じているのは、⼤学全体のあたたかいサポートです。特待奨学生としてご⽀援をいただいた事もそうですし、事務スタッフの⽅々がいつも学⽣の活動を気にかけてくださったり、先⽣⽅が「最近どう?」と声をかけてくださったり。学内のどこに居ても“⾳楽を学ぶ学⽣を応援する空気”があり、背中を押してくださる感覚がありました。⼤学・⼤学院での年⽉は、単に知識や技術を得たという以上に、“⾳楽家としてどう⽣きるのか”を考え続ける時間だったように思います。今振り返ると、東京⾳⼤での経験がなければ、その後のさまざまな研修・厳しい環境の中で⾃分を⽀える軸が⽣まれていなかったのでは、と思います。

▲付属高校卒業演奏会の際に、恩師・安達さおり先生と
―卒業後はイタリアへ渡られました。イタリアでの研鑽やキャリア形成には、どのような姿勢で向き合ってきたのでしょうか?
⽂化庁の海外研修制度でイタリアのミラノとスイスのルガーノへ⾏き、その後、五島記念⽂化賞の海外研修制度で再びミラノに⾏ったので、イタリアとスイスに合わせて 3 年ほど滞在しました。正直、最初の頃は語学も⽂化もまったく慣れず、本当に⼤変でした。でも、現地で暮らすからこそ得られるものがある。街の⾹り、⾷⽂化、建造物、⾔葉のニュアンス…。五感全てで現地の空気感を吸収しないとオペラは歌えない、そう今では強く感じています。歌は、⾃分の中にあるものだけで表現しようとすると枯渇する。総譜を読んだり、作曲家や物語の背景を調べたりするうちに、「この役はこう呼吸すべき」「ここでフレーズを⼤きく取っていい」という“⾃由”が⽣まれてくる。それは、⽇本で学んだ基礎のうえに、イタリア⽂化を⾝をもって吸収したことで初めて開けた視野だと思います。と⾔いながらも、イタリアに渡ってからの毎⽇は、本当に“必死”の連続です。オペラの本場では、⽇本以上に競争が激しく、劇場のオーディションも条件が厳しい。しかも⽇本⼈のソプラノが主役を張るケースは決して多くありません。だからこそフットワークを軽くして、とにかく必要だと思うコンクールやオーディションは全て受けました。勝ち獲れる保証なんて⼀切ないけれど、挑戦を⽌めた瞬間に道が閉じてしまうような世界。迷っている暇はないんです。イタリアに来ている韓国や中国の若い歌⼿たちの、「受けられるものは全部受ける!」というスタンスを⾒て、「この世界でやっていくなら、これぐらいやらなきゃいけないんだ」と痛感しました。もちろんうまくいかない時もたくさんあります。しかし、⾃分の歌い⽅を再構築したり、作品の本質を⾒つめ直したりしながら、⼀歩ずつ⾃分の⾜で進んでいくしかない。それが私のイタリアでの“闘い⽅”だったと思います。

▲イタリア・ミラノ海外研修で初めて訪れた際に、ベルガモのドニゼッティ生家にて

▲イタリア・ミラノ海外研修で初めて訪れた際に、ミラノ・スカラ座にて

▲イタリア声楽コンコルソ 第1位・ミラノ大賞受賞の際に、ピアノ伴奏をしてくださった篠宮久徳さん(東京音大の先輩)と

▲イタリア・サルデーニャ島のカリアリ(カリアリ音楽院/カリアリ国際音楽サマーアカデミー)にて、イタリアの恩師であるルチアーナ・セッラ氏のマスタークラスにて
―現在はイタリアと⽇本を⾏き来しながら活動されています。どのようなリズムで⽣活されているのでしょうか?
今現在は半年イタリア、 半年⽇本といったような⽣活スタイルです。⽇本に来るときは公演やコンクール、オーディションが重なっていて、 3泊4⽇〜1週間程度でイタリアに戻るということも多々。実は 3 歳の娘がイタリアにいるので、⼦どもが⽣まれてからの⽣活はそれこそ想像以上に⼤変です。しかし、同時に“歌い続ける理由”にもなりました。
イタリアでのキャリアは、待っていたら与えられるものではありません。特に私はソプラノ(その中でも大勢いる声種)ですし、⾃分で勝ち獲った役、⾃分の⾜で掴み取ったチャンスでようやく成⽴する世界でもあります。だからこそ、娘を授かる前に決まっていた役があり、「どうしても歌い切りたい」と出産前に強く思いました。それが、娘と歌=今後の生きる活力に変わった瞬間だったのだと思います。今思えば出産の 2 週間後にサルディーニャ島サッサリ市立劇場に稽古⼊りしたときは、無謀といえば無謀だったかもしれません。この役はオーディションで私を選んでいただいたもの、このチャンスを逃したら次はいつ来るかわかりません。ですが、生まれてくる娘が第一です。もしも何かあったときは全てをキャンセルすると決めていました。幸いなことに出産も舞台も問題なく、その時ばかりは神様が味方をしてくれたのだと思いました。そして、夫や家族が全⼒で⽀えてそばにいてくれるからこそ、今もなお舞台に立ち続けられていれること、仕事ができていること、心から感謝しています。私は本当に人に恵まれているのだと感じています。
いつか私が舞台にいる姿を、娘に観てもらう⽇を胸に、「ひとりのオペラ歌⼿として誇りを持って歌いたい」という思いが、今の私の原動⼒になっています。そして、それを⽀えているのはやはり、“歌が好き”という揺るがない純真な気持ちからではないでしょうか。
誰に⾔われたからではない、⾃分が歌いたいから動く。その主体性がイタリアと日本のキャリアを切り開いてきているのだ思います。

▲イタリア・サルデーニャ島のサッサリ市立歌劇場(”Ente Concerti Marialisa De Carolis”)にて、ドニゼッティ『ドン・パスクワーレ』ノリーナ役でデビューの際に、楽屋にて

▲同公演出演中、サッサリ市街にて
―オペラ歌⼿であり、⺟であり、挑戦者でもある。その全てが砂⽥さんの芯の強さを形づくっていると感じます。砂⽥さんのように海外で活動したい学⽣も多いですが、必要な⼒は何だと思いますか?
⼀番は、やはりフットワークの軽さだと思いますね。韓国や中国の学⽣は、チャンスがあれば迷わず動く。そのバイタリティーは本当にすごくて、私も刺激を受けていました。そして、人との信頼でつながるコミュニケーションも重要です。こちらで”コネクション”と⾔われるものは、⼈間同⼠の信頼関係です。単に誰かに紹介してもらうのではなく、⾃分がどう相⼿と向き合いつながるか、どのような現場でどんな姿勢を貫けたか、そこで”つながり”が⽣まれます。誠実に積み重ねることが、確かなキャリアにつながるのだと信じています。
そして最も⼤切なことは、“⾃⼰主体でいること”です。誰のために歌うのか。なぜ歌うのか。掘り下げていくと、どうしても“歌うことが好きだから”という答えにたどり着きます。
ヨーロッパで歌うようになって痛感したのは、“歌⼿としての軸をどこに置くか”です。作品をどう解釈するか、どのように指揮者と演出家、共演者とコミュニケーションを取るか、稽古にどれだけ時間を割くか、その上で最終的にどんな音を出し、表現したいか。全ての選択に⾃分の意思が強く問われます。
イタリアでの⽣活は、簡単なものではありません。⽂化と⾔葉の壁も、オーディションで落ち続ける現実もあります。それでも続けてこられたのは、「この作品を歌いたい」「⾃分の声で表現したい」という一種の職人的な、純粋な気持ちがあるからではないでしょうか。海外でキャリアを築くには、“誰かに求められたから歌う”のではなく、“⾃分が歌いたいから動く”という主体性が⼀番の強さになる。その思いが⾏動⼒を⽣み、結果的にチャンスにつながっていくのだと思います。
―好きだから続けられる”、本質ですね。最後に、東京⾳⼤の学⽣、そして⾳⼤を⽬指している⾼校⽣にメッセージをお願いします。
学⽣時代に⼤切なのは、興味のあることを徹底的に深めることだと思います。本を読む、演奏会に⾏く、舞台を観る、感じる、⼈と話す、そして演奏し歌う…。後にそれらが全て⾃分の糧になります。壁にぶつかることも⼤事なプロセスのひとつです。私⾃⾝、今でも難しいと思う事ばかりですが、 勉強をし、練習をして、時には美味しいものを⾷べて、目一杯バカンスを楽しんで息抜きをして、そうやって乗り越えていきます。
なにより⼤切なのが“勉強をし続ける”ことです。⼤歌⼿たちがみな 「勉強しなさい」 と⾔うのは真理です。勉強せずに舞台に立ち続けることはできません。東京⾳⼤は、その姿勢を支えてくれる居場所だと思います。⾃分から動けば必ず⼿を差し伸べてくださる。その勉強の原動⼒は、何度も繰り返しになってしまいますが、やはり“好き”という気持ちです。まずは興味があることを⾒つけて、それに⼀直線になってみてください。その上で進路に迷うことがあれば、誰かに相談してください。私⾃⾝も家族や先生、先輩や友⼈にとにかく話すことで、⾃分の気持ちが整理されていく経験がありました。東京⾳⼤は、先⽣や仲間、職員の方々が、いつも学⽣を⾒てくれています。積極的に相談し、いろいろな扉を叩いてみてください。キャリア⽀援センターのように、在学中から気軽に相談できる場もあります。話し難いことでもひとりで抱えずに扉を叩いてみることで、思いがけず道が開けることもきっとあるはずです。
東京⾳⼤で過ごした年月は、私にとって「⾳楽家として⽣きるとはどういうことか」を問い続けた時間でした。これは一朝一夕に人から学べることではありません。勉強をして常に自分に問い続けることが必須です。しかしそれは人生も同様ではないでしょうか。先⽣⽅の佇まいやお⾔葉、音楽があふれる⽇常、共有できる仲間、自然体で⾃由な空間。その全てが今の私の軸になっています。イタリアと⽇本を⾏き来する⽣活は決して楽ではありませんし、歌と同様にある種スポーツ選手が行うような身体の調整が必要です。それでも声を通して表現できることの楽しさは何ものにも代えがたく、この道を⾃分で選んでよかったと思っています。そして今後も日本で、さらにヨーロッパでも、研鑽を積み続けていきたいと思っています。
これから⾳楽を志す皆さんも、どうか“⾃分の軸”を⼤切に進まれてください。迷いながらでも、⾃分の⾜で⼀歩踏み出した先に、何かを必ず感じると思います。
東京音楽大学は、その挑戦を⼒強く⽀えてくれる場所です。
(総務広報課)