検索

よく検索される項目

【音楽学のススメ】第2回 藤田茂教授「音楽学のめざすもの—筆舌に尽くせぬものを語るという夢」

第2回 藤田茂教授

「音楽学のめざすもの—筆舌に尽くせぬものを語るという夢」

 

さまざまな観点から音楽を考察する「音楽学」。シリーズ「音楽学のススメ」では4名の専任教員に執筆を依頼しました。皆さんの音楽学習に役立つおもしろい「ネタ」を発信していただけることでしょう。  
 

 音楽は言語を絶するものではなく、筆舌に尽くせぬものだと言ったのは、フランスの思想家、ジャンケレヴィッチだった。音楽は聴くだけで(あるいは、演奏するだけで)充分というのは一面で真理ではあるけれども、そう言い切るには、音楽体験はあまりに深い。そして、あまりに深いものであるがゆえに、ひとは音楽を語らずにはいられない。もちろん、どんなに言葉を尽くしたところで、その体験をすくい取ることはできないのだが、その無念さがさらにひとを言葉に駆り立てる。
 

 音楽学は、この無念さを乗り越えて、筆舌に尽くせぬものをなんとか語ろうとする不可能な試みであり、また、そのための方法をなんとか見出そうとする見果てぬ夢である。歴史を究めようとするのも、社会を考ずるのも、すべてはこの夢のためだ。そして、語りの対象が西洋芸術音楽であるならば、ひとは当然、音楽作品を、また、それを生み出した作曲家の営みを知ろうとする。
 

 実のところ、音楽作品を語るモードと作曲家を語るモードは、まったく別のものである。音楽作品には、音楽作品を統べる内的法則というものがあり、構造主義を待つまでもなく、それは個人を超えたものとしてある。それは音楽言語と呼ばれるもので、普通の意味でのわたしたちの言語が、それを操る誰のものでもないのと同じである。しかし、音楽作品には作り手がおり、実存主義を待つまでもなく、その作り手は、そのひと自身の掛け替えのない人生を生きている。それは個性と呼ばれるもので、わたしたちの誰も誰かの代わりにはならないのと同じである。音楽作品を語るモードと作曲家を語るモード、両者を統合する方法はあるのだろうか、統合できなくとも両者を循環させる方法はあるのだろうか。
 

 かつて、アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュは、マーラーの伝記研究を30年間続け、グスタフ・マーラーという個性を克明に描き出した。しかし、彼のすばらしさは、それに終わることなく、そこからマーラーの作品を語る新たなモードを生み出そうとしたことだった。わたしは先般、メシアンの伝記研究を日本語にしたのだけれども、こちらもこれで終わりではないと思っている。ここからメシアンの作品を語る新たなモードが生まれてくれることを願う。
 

 

 音楽は筆舌に尽くせぬものであり、言葉がその体験を完全にすくい取ることはありえない。けれども、音楽に魅せられ、音楽を語らずにいられないひとびとがいるならば、その夢を一緒に追求したい。
 

【藤田茂教授プロフィール】
フランス政府給費留学生としてパリ第4大学(現、ソルボンヌ大学)に学んだ後、東京藝術大学博士後期課程修了。過去にブリュッセル王立音楽院の短期招聘教授も務める。フランスの音楽文化を中心に研究しています。