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【私のお気に入りシリーズ 】第7回 鈴木 信五教授 「レハールのオペレッタ」

 

「私のお気に入り」を紹介するシリーズ。対象は、古今東西、ソフト・ハード、ミクロ・マクロを問わず、何らかの形で音楽に関わる事象すべて。さて何が飛び出すか?
7回目はイタリア語の鈴木信五教授にお願いしました。

 
 

鈴木信五先生

 

「レハールのオペレッタ」

 

 音楽に関して「あなたのお気に入りは?」と聞かれれば、現在の筆者は、迷うことなく「フランツ・レハール作曲の数々のオペレッタだ」と答えよう。筆者がイタリア語教員であることを知る人はこの答えをいぶかしむかもしれないし、また、このような公の場になぜもっと重厚な答えを用意しないのか、と拍子抜けする向きもあろう。が、そこは、門外漢の強みである。ただただ自分の好みに合っていて大好きなのだ。理由はそれで十分であろう。

 

 筆者はもともと演劇が好きで、劇場にはよく足を運んだ。シェイクスピアやモリエール、ラシーヌも見たし、イタリア演劇では、マキャベッリ、ゴルドーニから現代劇まで見に行った。歌舞伎もよく見たし、能も見た。そんな筆者が歌劇を好まないわけがない。当然、イタリアオペラにも興味がある。

 

 筆者が駆け出しの教員だった頃、専門がイタリア語だと知ったある音楽学者が言った。「イタリアオペラは大掛かりな紙芝居だと思えばいい」と。もちろん蔑(さげす)みを込めた表現だったのだろうけど、妙に納得した覚えがある。ただし、誰が見てもわかりやすく面白い劇だという肯定的な意味で。ところが、こうした自分のとらえ方にも、時間がたつうちにじわじわと違和感が湧いてきた。イタリア文学史に燦然(さんぜん)と輝く詩人メタスタジオや奇才ダ・ポンテのオペラ台本は、ただわかりやすくて面白いだけの薄っぺらなものだろうか。それまで培(つちか)われてきた伝統があったからこそ、プッチーニの音楽性が伝統的な詩の韻律法の殻を破ることができたのではないだろうか。そこには、「大掛かりな紙芝居」とはかけ離れて壮大な、しかし、ある意味で威圧的でさえある世界が広がっていた。

 

 なまじイタリア語をかじったばかりに、イタリアオペラは、自分にとってただ楽しむだけの対象ではなくなってしまっていたようだ。そんな時である、あるすがすがしい昔の記憶がよみがえってきたのは。当時の筆者はまだ10代はじめで、レハールの「金と銀」や「メリー・ウィドウ・ワルツ」(器楽)がやけに気に入ってしまい、毎日のようにレコードで聴いていた。こう考えると、筆者のレハール歴は長い。しかし、レハールが上演される舞台を見てみたいと思い立ったのは、ほんの数年前のことに過ぎない。バーチャルな舞台で我慢するなら、幸い図書館のサイト内には Naxos Video Library がある。これに YouTube を加えれば、かなりの数の彼のオペレッタが通しで鑑賞できる。幼いころの好みというのは、本当に純粋で正直なものだ。ドイツ語の内容もはっきりわからないくせに、どの曲を聞いても「ハマってしまう」という言葉がぴったりの状況なのである。

 

『メリー・ウィドウ』第3幕より。主役2人のすぐ後ろに本学専任講師の志村文彦先生、左から5番目のグリゼット(踊り子)が2010年度卒業生の村山舞さん(写真提供:東京二期会)

 

 さて、生(なま)で見たいと思っていた舞台であるが、今年の11月末に東京二期会による『メリー・ウィドウ』の公演があった(本学からは志村文彦先生が出演された)。またとないいい機会だったのだが、年齢のことを考えると、このコロナ禍のなかでは予約する勇気が出なかった。一方、来年3月で定年を迎える筆者は、最後の春休みを利用してヨーロッパ旅行を計画していた。その折に、レハールゆかりの土地も訪れたかったのだが、この計画も頓挫してしまいそうだ。

 

 レハールが残した数々のオペレッタは、実にバラエティに富んでいて、その全貌も国際色豊かで悲喜こもごもの内容を呈するので、実際に自分がはじめて見る公演がどの作品になるのか、それを考えただけでも今から胸がときめいてくる。ただ、その機会が巡ってくるのは、どうやら、今回のコロナ騒ぎが収まるまでお預けのようである。

 
 

鈴木 信五(すずき しんご)
本学教授。東京外国語大学イタリア語学科卒業。学術博士(ブカレスト大学)。専門はイタリア語を中心としたロマンス語学。著書に“Costituenti a sinistra in italiano e in romeno [イタリア語とルーマニア語における左方の要素]”(Firenze, Accademia della Crusca, 2010)などがある。

 
 
 
(広報課)