私が東京音楽大学で教えはじめたのは、井口愛子、関根有子両先生のお誘いによるものでした。音楽教室も手伝ってほしいと言われて、それは昭和56年4月にはじまり、平成、そして、令和2年3月までの実にあっという間。夢中で過ごした39年間でした。その前年に桐朋学園大学のピアノ科教授であった夫を亡くし、失意の中にいた私に「新しい学校で教えたら」と声をかけてくださったのが愛子先生でした。
それよりも数年程前から東京音大にいらっしゃった愛子先生は、「ピアノは絶対に小さい時から育てなければ駄目」という強い信念をもっていらっしゃり、東京音大に来られた翌年に音楽教室を作られたのです。そして、初代の室長としてお亡くなりになるまで生徒一人ひとりの個性を自然に、また自由に伸ばすように情熱を注ぎ、音楽教室の発展にもご尽力されました。今も東京音大で教えてくださりながら国内外で大活躍されている、小川典子先生、東誠三先生は、当時の愛子先生のお弟子さんです。
話を戻します。音楽教室創立当初、優秀な生徒さんを育てても、中三で音楽教室を修了すると、ほとんどの生徒さんは、他の有名な音高に行ってしまいました。それは、私がここへ来て4年目のことでした。3人のピアノの生徒さんが音楽教室を修了して、はじめてそろって本学の付属高校に来ることになったのです。その時の野本良平理事長のおよろこびようは、今でも目に浮かびます。
当時は、毎年3月に大学生のための海外研修旅行があったのですが、「特別にその3人の中学生を連れて行ってよい。ついてはあなたが彼女らの引率者として一緒に行くように」、という理事長命令で、ウィーンやパリをはじめとしたヨーロッパの各国を3人の中学生と共に大学生の中に混じって旅をしました。
実はこれには後日談があります。この内のふたりは、大学卒業と同時にドイツに留学することになるのです。その内のひとり灰原智子さんは、ベルリン芸術大学でコレペティトールとして、現在もドイツを拠点に世界のあちこちで活躍されています。また、もうひとりの小市香澄さんは、現在、洗足学園音楽大学で、ピアノ講師をされています。
私も本当に、今までに、たくさんの卒業生を出しました。ひとりとして決して忘れることはありません。そして、先生方、職員の皆さまとの温かな交流は忘れられません。中でも忘れられないのは、付属高校の教職員の方々の熱い生徒さんたちへの思い┅等々。私の一人ひとりに対する思いは、いくら書いても書き切れません。
そこから先の東京音大の急速な発展ぶりは、目を見張るものがありました。力のある先生方も徐々に集まるようになり、今日ではどこにも負けないほど、よい学生たちが育ち、卒業生たちの活躍の場も広がっていきました。そのような場面にいさせていただいた私は幸せ者です。
長い間ありがとうございました。できることなら、いついつ迄もいたかった。そう思わせる場所というのは、そう多くはありません。幸せな時間を過ごさせていただきましたことを改めて感謝申し上げます。私は何処にいても、東京音大を見守り、その発展をお祈りしております。
本当にありがとうございました。
三浦捷子
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