2025.01.29
「モデナ・パヴァロッティ歌劇場フィルハーモニー」音楽監督、
ウクライナ国立オデーサ歌劇場首席客演指揮者、
元ボローニャ歌劇場首席客演指揮者
1995年作曲指揮専攻(指揮)卒業
2025年の外交関係樹立70周年を前に、サウジアラビア国立管弦楽団と合唱団が、11月22日にアジア初となる東京公演を開催しました。芸術監督を務めたのが、イタリアを中心に活躍する本学卒業生・指揮者の吉田裕史さんです。記念すべき舞台裏に秘められた思いとご自身のこれまでの歩み、音楽への情熱と挑戦など、多岐にわたるテーマで語っていただきました。
― 【Marvels of Saudi Orchestraサウジアラビア・オーケストラの驚異】東京公演、大喝采のフィナーレを迎えられましたね。非常に歴史的な公演であると感じましたし、これまでに観たことのない舞台でした。
今回の公演は2025年のサウジアラビアと日本の外交関係樹立70周年を前に、パリ、メキシコシティ、ニューヨーク、ロンドンの4都市での世界ツアーを巡ってきたサウジアラビア国立管弦楽団(以下、サウジ国立オケ)がアジア初となる東京公演に訪れるという、記念すべきコンサートでした。サウジアラビアでは宗教上の理由で、長年にわたって公の場でのコンサートが禁止されていました。現在は石油依存からの脱却を図る改革プラン「サウジ・ビジョン2030」が打ち出され、音楽や文化の発展が推し進められています。この流れの中、サウジ国立オケは2019年に結成されたばかりですが、今回来日したメンバーはエジプト人の指揮者を除き、すべてのメンバーがサウジアラビア人。さらに、いわゆるクラシックの管弦楽器のほかに、中東・北アフリカで5000年以上に渡って演奏されてきた伝統的な楽器で編成されており、国をあげた文化発展に対する彼らの熱意や成長には、ものすごい気概を感じましたね。
― 今回、吉田さんは音楽監督に就任されましたが、どのような経緯だったのでしょうか?
先ほど申し上げた「サウジ・ビジョン2030」改革プランによって新しい時代が到来する動きの中で、2017年、私はサウジアラビア史上初のオーケストラコンサートを指揮するという貴重な機会をいただきました。日本で300名ほどオーディションし、先鋭メンバー80名超のオーケストラを結成。これまでオーケストラに触れたことがないが故に、管弦楽作品に対する固定概念のない国での公演です。どのような舞台構成を描くべきなのか?考え抜いた末、世界中の音楽をまんべんなくプログラムに組み込むことにしました。と同時に、日本人が招かれて日本のオーケストラが演奏するのだからこそ、日本の魅力が伝わる曲目も届けたいと思い、選曲しました。日本の民謡が詰め込まれた名曲、外山雄三作曲『管弦楽のためのラプソディ』です。結果、これまでに体験したことのないような熱量のスタンディングオベーションでフィナーレを迎えました。まるでロックのコンサートのような拍手喝采が起きた経験は、一生忘れられませんね。そのようなご縁があって、今回のお話をいただきました。
- まさに歴史的な出来事をサウジアラビアで経験されていたのですね。今回は逆にサウジアラビア国立オーケストラが来日される公演となりましたが、音楽監督としてどのような采配を振られたのでしょうか。
これまで【Marvels of Saudi Orchestraサウジアラビア・オーケストラの驚異】公演ツアーでは、世界4都市でオーケストラやジャズバンドなど、それぞれの国独自の音楽文化とのコラボレーションを通し交流が図られてきました。今回、サウジアラビアの皆さんに日本の音楽文化を体感していただくこと、本邦初公開となるサウジアラビアの音楽を日本の皆さんにお届けすること、そして最後は両国の音楽文化でインスパイアし合う舞台をイメージし、三部構成の企画としました。
第1部では日本の雅楽団体による舞楽「陵王」を披露しました。1200年以上の歴史をもつ雅楽は、管弦打楽器すべてがそろった世界最古のオーケストラであり、世界に誇るべき日本文化のひとつです。悠久の調べに乗せて色鮮やかなコスチュームが翻るさまを、サウジアラビアの皆様にもお楽しみいただけたと思います。
第2部がサウジ国立オケ・合唱団による演奏です。弦楽器はヴァイオリンとコントラバスのみで、中声部がない編成。そこにウードやラバーブといったアラブの伝統弦楽器、ズマーラという縦笛、ダフなどの打楽器が加わり、中東のDNAを感じられるすばらしい音色がホールに響き渡りましたね。
第3部ではサウジ国立オケ・合唱団の皆さんと、東京音楽大学付属オーケストラ・アカデミー(以下、オケアカ)が共演し、ファンファーレや次々と曲調を変えるサウジアラビアの名曲をモチーフにしたメドレーを、重厚感あるハーモニーで奏でました。さらに布袋寅泰さんをお迎えし、サウジアラビアでも大人気の名曲、映画『キル・ビル』よりBattle Without Honor or Humanityを演奏。盛り上がりが最高潮に達する中、最後はサウジアラビア国歌『アンマー・ヤ・ダルナ』での大団円となりました
- サウジアラビアと日本、両国の観客がともに立ち上がりスタンディングオベーションが起こる、すばらしいコンサートでした。本番までにはどのようなご苦労があったのでしょうか?
最初は両国オーケストラのメンバーの空気が硬かった印象があります。普段触れ合うことの滅多にない、異文化との出会いですからね。東京音大のオケアカメンバーとしては、中東の楽器が並ぶのも新鮮だったと思います。合同演奏する曲目に関しては、ロンドンで作曲やアレンジを学んだサウジ国立オケのアレンジャー、マエストロ・ラミ・バシが担当し、彼とも今回大変多くのことを語りあいました。中東音楽は十二平均律ではありません。よって、リハーサルはチューニングの音をすり合わせからスタートするというハプニングも経験しました。さらに、十二平均律ではないが故に、彼らは五線のオーケストラ譜を使っていません。今回の来日でオケアカと共演するにあたり、試行錯誤を重ねながらなんとか五線譜に落とし込んだわけです。お互いの顔合わせから密度の高い練習を重ね、日を追うごとにイキイキとした表情に変わっていったのが、見守っていてもわかるほどでした。楽譜を渡されて本番まで3日間しかない中で、あれほどのレベルに仕上げられたオケアカのメンバーのクオリティーもすばらしかったですね。最後は両国すべてのメンバーがノリノリになって舞台をたのしんでいました。
― 想像以上にハードな舞台裏だったのですね。今回のプロジェクトにあたり、吉田さんはどのような思い入れがあったのでしょうか?
パリ、メキシコシティ、ニューヨーク、ロンドンと、4都市を巡ってきた世界ツアーの終盤で、いかに日本人としてのアイデンティティを打ち出せるか。中東の方々に、“本物の日本の音”を届けたい。そういう気持ちで臨みました。私は東京音楽大学を卒業してから数年を経てイタリアに渡り、以来20年以上を海外に拠点を置いて活動しています。イタリアの新聞なんかでは“Maestro del Sol Levante”、つまり“日出る国のマエストロ”と書かれるんです。自身たちの歴史や文化を誇るイタリアだからこそ、同じく独自の歴史文化を歩んできた日本に対して価値や魅力を感じていただき、こう表現していただけているということなのではないかと思います。また、海外にいると「日本はどんな国ですか?マエストロ、どんな音楽を聴かせてくれるんですか?」とよく聞かれます。音楽には国境はありませんが、音楽家にはアイデンティティがありますからね。ヨーロッパにいるとイタリアだったらオペラ、ドイツやオーストリアだったら交響曲、フランスやロシアだったらバレエが盛んです。それぞれ本場の国としてその音楽に浸ってきたバックボーンをアイデンティティとして持っているわけです。また、そうしたアイデンティティは魅力的に映りますし、関心をもってくれるんですね。日本が魅力的な国だからこそ先ほどのような質問もよくされますし、私は音楽家として常に日の丸を背負っている意識で活動しています。ですから、今回は舞楽に始まり、サウジ国立オケの皆さんとオケアカ、布袋さんとの音の融合を通して、両国の新しい音楽の歴史のはじまりを日本の地で監督できたことを光栄に思っています。また、当日は中東放送の中継も入っており、中東の皆さん10億人にコンサートをお届けできたことも感無量です。
― 海外で活躍されている吉田さんだからこそ、日本と日本の音楽を深く見つめ直していらっしゃることが、強く伝わってくるエピソードですね。東京音楽大学で学ばれてから海外でご活躍されるようになるまで、どのような経緯があったのでしょうか?
東京音楽大学にはコントラバスで入学し、7年間在籍しました。子どもの頃からの夢は、指揮者になること。指揮者になるには各楽器の奏法の理解は不可欠です。中学・高校と吹奏楽でトランペットを吹いていたので、大学への受験は弦楽器で臨み、入学後は副科でさらに打楽器などほかの楽器を学びました。2年生の終わりに試験を受けて指揮へ転専攻。大学で学んださまざまな楽器の基礎は、今でも役立っています。
卒業後は、大学の先輩にお声がけいただいたご縁で、日本のオペラ団体「東京二期会」の副指揮者を務めました。そこで5年間活動をしていたのですが、当時、指揮の先輩たちが国内外でガンガン活躍していたので、私も早く世界で挑戦しようと、当然のように思っていました。29歳で文化庁の在外研修制度によりミュンヘン・バイエルン国立歌劇場の研修生となり、ヨーロッパで観るオペラのクオリティーに感動し、活動拠点をドイツへ。そしてイタリア・ミラノのスカラ座で見たイタリアオペラにさらなる衝撃を受け、自分が進むべき道を確信したのです。2002年、五島記念文化賞・オペラ新人賞受賞を機に、拠点をドイツからイタリアへと移しました。
― オペラの本場イタリアで音楽家として活動することを、どのように感じていらっしゃいますか?
日本人がイタリアで音楽活動をするのは、日本で外国人が雅楽や歌舞伎をやるような感覚でしょうか…文化圏外の人という目で見られます。イタリアに20年暮らして実感するのは、音楽としてのオペラだけでなく、演出、舞台装置、舞台技術などのあらゆるノウハウやスキルを会得したいと集ってくる人の多さと情熱です。オペラ作品の大半――67%はイタリア語で書かれています。ドイツ語16%、フランス語10%、ロシア語6%、チェコ語0.6%…ということからもわかるように、イタリアはオペラの中心地として圧倒的な地位を誇っています。本場のコンテンツパワーに世界中から人材が引き寄せられ、豊かな才能がひしめいていることを考えると、今の自分があるのは、出会えた人たちとタイミングに恵まれていた、これに尽きると思います。そうでないとローマ歌劇場でデビューなど、とてもできません。
ローマ歌劇場の研修生として研鑽を積むなか、トリエステ・ヴェルディ歌劇場でバレエ『牧神の午後』を指揮してイタリアデビューを果たすことができた。その結果、ローマ歌劇場総裁フランチェスコ・エルナーニ氏が推薦してくれることとなり、イタリアでのオペラ指揮デビューはローマ歌劇場・カラカラ野外劇場にて『道化師』を振らせていただくことになりました。「日本にはこれからオペラという芸術をもっともっと花開かせてもらいたい。だから日本人のオペラ人材を育てなければならないんだ」という、オペラを愛してやまない彼の意志で、まだ実績も少ない日本人の私を大抜擢してくれたんですね。130年以上の歴史を誇るローマ歌劇場カラカラ野外劇場で、日本人としてはじめて指揮をするという異例の起用です。劇場に貼られた公演ポスターを見た時に、私の名前とともに“指揮者、そして公演の全ての責任を負う者”と書かれてあり、正直「恐ろしい」と思いました。緊張という言葉を通り越すほどの、感じたことのない感情です。日の丸を背負っていますし、歴史上初の大役ですし、失敗は絶対に許されない。緊張感よりも責任感が勝っていた気がします。しかし、デビュー戦がいきなりそのような大役だったことが功を奏したのだと、今は思っています。自分の能力よりも負荷がかかった方が、やり遂げた時に成長するじゃないかと。さらに、怖いもの知らずでがむしゃらな若い時分だからこそ、成し遂げられることもありますしね。
― オペラの情熱をもってイタリアに渡り、さまざまな方々との出会いとともに活躍されてきて、今の吉田さんがあるのですね。東京音楽大学で学ばれた先輩として、後輩たちにメッセージをお願いできますか?
ひとつ言いたいのは、「挑んだ方がいい。それも若い時に」ということですね。コンクールを受けたり、ライバルがいたり、先輩を目標にしたり、人それぞれでいろいろあると思います。だけどその次元にとどまっていてはいけない。周りがライバルなんていうのは当たり前なんです、だって実力の世界だから。海外にいるとよくわかります。音楽家の人生は、人との戦いなんかではない。戦うのは自分自身となんです。自分の価値や魅力をいかに成熟させていくかが重要であって、他人を気にしても自分のレベルが上がるわけではない。私自身その時々を必死に生きてきましたし、その瞬間その瞬間を悔いなく、最大の燃焼度で駆け抜ければいいと思います。古代ギリシャにも「チャンスの神様には前髪しかない」ということわざがありますしね。そのためには、とにかく失敗を恐れずにまずは打席に立たないといけない。10回チャレンジして、7回失敗してもいいわけです。3回結果が出せれば、ヒットでもホームランでも3割バッター、つまり大打者なんですから。私もそれはもう、チャレンジしまくってきましたね。そもそも打席に立たなければ結果を残せない、歴史に名を残せないのですから。
ただし相当、頭は使わなきゃいけない。音楽家は計算をしないといけない。結果を出すためには滅多矢鱈にやっていてもダメなんです。まず、自分の中で、成功の定義をきちんとわかっていないと。そこから逆算するんです。芸術にはよく「感動」という言葉が使われがちですが、では、自分が音楽家として人を感動させるための成功地点はどこなのか?たとえばお客さんが何人入るかと考えるのか?しかしそれはオーガナイザーにとっての達成目標です。では音楽家としての成功とは何なのかと言えば、演奏後の聴衆の反応ですよね?それがスタンディングオベーションなのか、涙を流させることなのか。その具体的な成功のイメージを自ら描き、自分の身体の中にどう音楽を入れていくのか、本番の日に最高のコンディションに仕上げられるためにどう整えていくのか、逆算しながらメリハリをつけていかなければならない。だから、やみくもに努力をすることが成功につながることとは違うんです。その上で1つ1つきちんと結果を出していけば自信がつくのではないでしょうか。
そのためには勉強も重要ですが、本気で海外での活動にチャレンジしてみる選択肢もあるのではないでしょうか。私はツテがなく一からイタリアで今の地位を築いてきましたが、国内のオペラ団体にお声がけいただいた先輩や、海外でチャンスをくれた音楽家など、これまでに私を導いてくれた方々との出会いに感謝の念が絶えません。ですから、その恩返しの意味も含めて、本気でイタリアオペラでプロとして活躍しようと願っている母校の後輩がいるのであれば、喜んでサポートしたいと思っています。『イタリアで勉強したいけど、誰も知り合いがいないし…』と、一歩踏み出すことを迷っている方がいれば、いつでも私を頼ってきてください。
― 心強いお言葉、ありがとうございます。イタリアを拠点として、世界でご活躍されている吉田さんだからこそ見える景色があるように感じます。
知識を吸収することはもちろん大事なのですが、音楽とは、本質的なところでは磨いていくものだと思います。美術品と違って古いということに価値があるというものではない。今を生きる人たちにとって魅力的だと感じてもらえるような努力が必要なんですね。イタリア人はオペラの本場だからこそ、逆に努力している。伝統を守ってずっとトラディショナルにやっているのかと思いきや、現代の若者にも楽しめるような演出も大いにチャレンジしていますし。
では音楽家にとって磨くべきところは何か。それは、テクニックと音楽性なんですね。日本では一見テクニックが重要視されがちですが、それだけではダメなんです。イタリアやドイツではひとりの演奏家の弟子につくというよりは、音楽を学ぶためにテクニックと音楽性の面から、複数の先生にコーチングしてもらうのが通常です。声楽家は声のテクニックだけをコーチングしてくれる技術専門の先生と、たとえばフレージングやルバートの入れ方、譜読みなど音楽の伝統を教えてくれる先生と、時に2人3脚だったり、3人4脚になったりします。要するにチームなんです。ルチアーノ・パヴァロッティは常に30人ぐらい引き連れていましたよ。歌うための体調を最高な状態に整えるために、コックまで連れて歩いていたと言いますからね。
だから自分はまだまだだと、本当に実感しますね。私は現在、縁があってモデナ・パヴァロッティ歌劇場フィルハーモニーの音楽監督に就任したのですが、劇場に行くたびにプレッシャーを感じます。イタリアオペラを世界に知らしめた英雄、パヴァロッティの銅像が建っていて、毎朝Buon Giorno!と語りかけてくる。オペラ界に燦然と輝く、この偉大な音楽家の名を冠する歌劇場で指揮を振る責任と誇りを感じながら通っています。そして思うんです。世界中どこに行っても誰でも知っているような人間になりたい。ここまで愛され、演奏を認められ、歴史に名を残すような音楽家になりたいと。
― 大変貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
(総務広報課)