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鈴木啓資さん 国立大学法人奈良教育大学准教授に就任内定 スペシャルインタビュー(後編)

国立大学法人奈良教育大学准教授に内定

鈴木啓資さん

2021年3月博士(音楽)取得

 
リスト音楽院修士課程首席修了 東京音楽大学ピアノ演奏家コース卒業 静岡県立藤枝東高等学校卒業

 

― 鈴木さんは、学部を卒業した後リスト音楽院に留学。今回は留学のことからお聞きしたいと思います。留学をしようと思ったきっかけはなんですか?
 
そもそも高校では理系のクラスに在籍していて、将来は中学の頃から興味をもっていたロボット工学の道に進もうと思っていました。この分野はこれからの社会で必要とされる分野なので、安定する道だったと思います。しかし、それを断ち切って音楽の道に進む決心をしました。ピアノをこのまま趣味としてやっていくことと、専門の学位を取得した音楽の専門家になるというふたつの道を想像した時、自分は間違いなく、理系の道を選んだら「なんで音楽を選ばなかったのだろう」と後悔すると高校生ながら考えました。そして安定しているから工学の進路を選ぶという決め方では、きっと一生後悔することになるだろうと。どちらもやりたいことではあったのですが、一度きりの人生において妥協や安定を選択することによる後悔はしたくないという思いだったことを、今でもはっきりと覚えています。当時、さまざまな選択肢がある中で、本当に突き詰めたいことが音楽だったということですね。このような思いで音楽の道に進むことを決めましたが、それと同時に、ふたつのことを決意しました。ひとつは、なにがあっても、どんなに苦しくても理系の道に戻らないこと。もうひとつは、必ず留学するということでした。つまり、留学についてはきっかけが途中にあったというより、音楽の道に進むと決めた時から、自分の中で決意していたことだったのです。
 
― 留学への強い思いはどうしてですか?
 
選択肢が複数あった中から片方を捨て、ほとんど専門的なところまで足を踏み入れたことのない音楽の世界を選択するとなった時に、知りたいことや疑問に思うことを放置することが嫌いな自分の性格からして、「本物を追求しないと気が済まないだろう」と思いました。クラシック音楽を勉強するということは、基本的にヨーロッパの音楽を勉強するということ。本物を追い求めるなら本場には絶対行くべきであると思いました。それも短期ではなく、現地に住み、異国の地で生活する中で勉強したいと強く思っていました。音楽というものが文化的なものである以上、現地の雰囲気や生活を肌で感じながら勉強したいという気持ちは、自然なのではないでしょうか。もちろん日本で学べることはありますが、本物に触れて勉強したい自分からしたら、留学は自分の将来に当然あるべきものでした。

 
― 大学を卒業してハンガリーのリスト音楽院に留学。ハンガリーを選んだのはどうしてですか?
 
学部の頃からお世話になっている村上隆先生から、「あなたにはここが合っているんじゃない?」と言われたことがきっかけですね。
大学3年の時に大学から奨学金をいただいて、フィンランドのシベリウス音楽院に交換留学に行かせていただきました。この4か月間の短期留学が非常に充実していて、今度は正規の留学をしたいと思っていましたので、シベリウス音楽院の修士課程に入るための受験勉強もしていました。もちろん先生も留学したいという気持ちを応援してくださっていたのですが、あるとき、「リスト音楽院はどう?」と勧められたのです。後からわかったことですが、私の情熱的な演奏スタイルを見て、フィンランドよりハンガリーが合うと思われたそうです。その見立てが見事に当たり、現在につながっています。ちなみに入試の時にはじめてハンガリーに行ったわけなのですが、その時からハンガリーの音楽や雰囲気の虜になっていましたね。
村上先生のお言葉がなければ今はないわけですし、ドホナーニにももちろん出会っていないでしょう。生徒一人ひとりにしっかりと向き合って、生徒の本質を見抜く先生に出会えていたことが自分にとって幸せなことですし、自分の人生をよい方向に変えてくださった村上先生に感謝するばかりです。

 
― リスト音楽院ではどんな勉強を?
 
レッスンは、ピアノが2名の先生から毎週1回ずつでした。そして室内楽も2グループ組んでいたので、こちらも2名の先生から毎週1回ずつ、そして現代音楽のレッスンもありました。座学では分析や音楽史の授業などを受けていましたし、ハンガリー語や英語を学ぶ授業もとっていましたね。非常に充実していた反面、レッスンの曲目が全部違うので譜読みと暗譜に苦労した記憶があります。
そのような勉強の一方、ハンガリーで運命的な出会いをしました。ピアノを師事していた先生の1人が、リスト音楽院の教授で学長でもあったドホナーニの孫弟子だったのです。その先生のレッスン部屋は、「ドホナーニの部屋」と名付けられていました。
日本にいた時は、ドホナーニをあまり知らなかったのですが、現地でドホナーニの曲を演奏するコンサートを生で聴いた時、その音楽性に惹かれました。しっかり研究をして、ドホナーニの音楽を、ドホナーニ直系の流れを汲む者として日本に持ち込みたい。そう思いました。

 
― リスト音楽院の修士課程でドホナーニの論文を書いたということですか?
 
いいえ、残念ながら書くことはできませんでした。論文は修士課程の修了要件ではなかったのですが、論文を書きたいと自ら申し出てみたのです。しかし、実技に集中してほしいという主任の方針で許していただけませんでした。このような状況でしたので、留学中のドホナーニ研究は自主的なものでした。知りたいことや研究したいことがたくさんあったので、ハンガリーの音楽学研究所や国立図書館、イギリスの大英図書館など、さまざまな研究施設に足を運び、現地の資料をたくさん調査しました。それらの施設は博士後期課程在籍中も何度も訪ねましたが、自筆譜のような貴重な資料も見せていただき、研究の継続性は大切であると感じます。ドホナーニの研究を始めてから5年経ちますが、最近は音楽之友社の「ムジカノーヴァ」誌上でドホナーニについて連載の機会をいただいたり、ハンガリー大使館の一部であるリスト・ハンガリー文化センターで演奏会や講演の機会もいただいたりしています。まだまだ駆け出しですが、これからも演奏者としても研究者としても精進していきたいと思います。

 
― ご自身の興味があることにとことん突き進んでいくタイプなんですね?
 
そうですね。昔からやらされることが嫌いで(笑)。学校での授業も、例えば教科書に載っている公式があったとき、公式だから覚えましょうということは嫌なんです。「なんでそうなるの?」という疑問が常に頭の中にあり、根本的なところを知りたくなるタイプ。通っていた中学は、数学で言うなら「公式の証明」をさせるような授業を展開してくれていたので、その点も自分には合っていたのかもしれません。
ピアノは8歳頃からはじめて、練習しなさいと言われたこともなく、楽しくやっていました。ほかの習いごとは、サッカー、野球、水泳など。あとそろばんと囲碁も。部活も音楽系に所属したことはなく、中学は軟式テニス、高校は囲碁でした。いかに専門的な音楽の勉強とはかけ離れた生活をしていたか感じていただけるのではないでしょうか(笑)。
親は興味をもったことを否定することはなく、さまざまなことに取り組むきっかけを与えてくれていたとあらためて思います。もちろん、「一度やりはじめたら、一定のところまではがんばろうね」という方針だったと後から聞いたことがあるので、手あたり次第に好き勝手やっていたというわけではないですけどね。ただし、一定のところまで行けばその先は自由。そういう環境だったからこそ、好きなことをとことん突き進むことができたのではないかと思いますし、そのような環境を親から与えられていたことが幸せなことだと思います。

 
― 最後に後輩たちにメッセージをお願いします。
 
今の段階で、自分の可能性を狭くしないでほしいと思います。自分がそうしてきたからかもしれないですが、いろいろな選択肢がある中でひとつを選ぶことと、選択肢がひとつしかない中で選ぶのでは、事情も価値もまったく違ってきます。たとえ得意分野があったとしても、それだけには特化せずに、多くのことに積極的に取り組んでみる。それもやらされるのではなく、できるだけ自発的な方がいいですね。そうすればそれらが自分の糧となり、将来必然的に返ってくるようになると思います。
 


▲ アルディフィルハーモニー管弦楽団(鈴木さんが立ち上げたオーケストラ)の第1回演奏会
 
(広報課員のつぶやき)
鈴木さんは、博士後期課程を修了した今も、指揮研修講座に通い研鑽を重ねています。教職課程ではじめて指揮に触れてから興味をもち、ピアノ協奏曲の弾き振りをしたいと思ったことが指揮を本格的に習いはじめたきっかけだったという。
学生時代から、オーケストラを集い大型バスを貸し切って地元の静岡でコンサートも度々開催しました。企画からポスター制作、動画編集まで全部自分でやるという。そのコンサートをきっかけに、毎月静岡のラジオに出演して、音楽の裾野を広げる活動を続けているそうです。いろんなことに興味をもち、自分なりに創意工夫して、とことん突き進んでいく。新天地でもきっと鈴木さんらしく活躍することでしょう。貴重な話をありがとうございました。

 


▲ 指揮研修講座のレッスンにて
 
(広報課)