国内外のコンクールにおいて本学学生・卒業生の受賞が続いています。ピアノ主任教授の石井克典先生に特別ロングインタビューを実施いたしました。
コンクールの現況、演奏において大事なこと、および本学ピアノでの学びの特徴についてお話を伺いました。3回に分けて掲載いたします。
(第1回)
― コンクールの現況を教えてください。
コンクールを目指す学生の数もレベルも上がっている
近年、国内・海外を問わずコンクールを目指す学生が多いですね。皆さん小さい頃からコンクールに参加してきているので、コンクールは日常的になっていて演奏することがみんな好きなのだと思うとうれしくなります。
最近学生に接していて、自分が弾くことだけでなく、友だちや人の演奏を生で聴くことがもっと大切だと感じます。そこから得ることはとても大きく、「演奏の耳」を使うほかに「聴く耳」を使う習慣をつけてもらいたいとも思っています。
自分が弾くことから解放された状態で生の演奏をじっくり聴くことです。ホールの客席や空間にどのように演奏が響くのかのイメージがないといくら指を使って練習しても耳が育たないと感じています。
私を含めて本学の先生方はいろいろなコンクールの審査をして、コンクールで学内外の学生の演奏をたくさん聴いています。先生方と話題になるのは、コンクール参加者たちの演奏技術のレベルが確実に上がってきているということです。その中でも本学のピアノ、ピアノ演奏家コースのいずれのコースの学生の演奏レベルも向上していることを感じており、大変うれしく思っています。
現在はたくさんの種類のコンクールがありますし、参加対象も課題曲もさまざまです。自分の目的にあったものを選ぶことができ、日本は演奏を磨くのにはとてもよい環境が整っているといつも実感しています。
将来ステージに立つための演奏家を目指すコンクールとなると、演奏を仕事としていく前提で課題曲が組まれるため、途端に課題、演奏時間が膨大になって、小さい頃に少ない曲をキメ細かく練習していた感覚から、協奏曲を含めてたくさんの曲目を一度に用意し、その上それぞれの曲目をキメ細かく用意しなければならない感覚に戸惑う人も多いかと思います。それらをこなすには音楽に対する自発的な姿勢と、人の手を借りずにある程度自分で曲を把握する力、楽曲や演奏に対する継続的な強い興味と集中力が必要だと感じています。
演奏はまずは曲への共感、イメージする力とフィジカルな要素のコンビネーションがとても大切だと思います。演奏は生の人間がその日、その場所、その時間にたった一回行うものなので、鍛えられたフィジカルの基に立つメンタルのコントロールも欠かせません。これらのバランスに加えて、「この音を得たい」と欲する強い気持ちが必要だと思います。
― 演奏において大事なことはなんですか?
「再現芸術」であるという前提
現在は音楽ジャンルの垣根なく演奏する人が増えてきました。コンクールなどでもよく話題になることですが、クラシック音楽のフィールドにおいては、「再現芸術」であるということは変わりません。自分以外の人が作ったものを演奏するわけです。演奏者のその演奏に、その楽曲の作曲者が存在するのかどうかはとても大切なことだと思います。よく「楽譜どおりだけではおもしろくない」と言いますよね。楽譜と言っても、音だけ並べたのではおもしろいわけはありません。一般に楽譜どおりと言っているのは、「音だけを間違えずに並べたもの」という意味だと思っています。作曲家は音以外にたくさんのインフォメーションを楽譜に記しています。言葉、あらゆる種類の記号、それらは作曲家によって使い方もさまざまですし、使い方のクセもあります。それらを読みとった時、演奏は飛躍的に作曲家の意図に近づき、それだけで相当おもしろくなります。これがいわゆる楽譜を読んだ、楽譜どおりに近い形になる、ということです。
楽譜に使われている言葉や記号は、作曲家の背景からその言葉や記号によってどんな感情や気分、色彩を作曲家が楽譜に投影したのかを探る手掛かりとなります。また楽器の進化の過程を知っていれば音色の選択も変わっていくでしょう。加えて、私は楽譜からイントネーションの読み取りをすることもとても大切だと思っています。
コンクールでもそれがどのように解釈されているのか、それが時に突飛な解釈だとしても、なにも読まれていない、意識すらされていない演奏よりは私はずっと興味深く聴くことができます。
作曲家と楽曲を探ることをしない演奏者の“私の音楽”よりも先に、作曲家に共感しているかどうかが大切です。
自作曲を弾くのならまったく話は別ですが。
私は、演奏にはムダな謙虚さや意味のない礼儀正しさはまったく必要ないと考えています。
必要なのは作者に対する共感とそれを楽譜から演奏に具現化しようとするその演奏者の意欲と熱意であり、たとえ自身を無にしようとしてもその演奏からは楽曲に乗ってその演奏者の個性が自然に伝わってしまうものです。楽譜を必死に読みとったら、同じ曲でも指紋が人それぞれ違うように、演奏も同じ演奏はまったく存在しないし違ってくるものです。
「再現芸術」という前提で演奏することは、演劇の俳優が脚本を読み込み、役になり切ってその役の感情を探りあて共感し、自身の中で昇華させるという作業に似ているかもしれませんね。
演奏における自由
再現芸術のお話をしましたが、演奏は決して窮屈なものではないと思います。いくら楽譜を深く読みとっても、用意したものを計画どおりそのまま弾くことはつまらないものですね。とても難しいことですが、曲を熟知すればする程に自由度は増していきます。演奏者はたくさんの曲の経験が積み重なり、その作曲家を知れば知るほど、表現の語彙が増えて、弾くたびに違った表現が可能になっていきます。私は留学時代ニューヨークで大好きなジャズをよく聴きにいきました。これこそ音楽だと今でも思いますが、ジャズプレーヤーたちがむしろクラシックの人よりも練習熱心なのに驚きました。即興演奏のためにより表現語彙を増やす努力をしていて、また本番の演奏でより自由になるために練習するのだ、と聞いたことがあります。
クラシック音楽でもその場でのその時しかない創造力の宿った演奏はより感動的ですね。
感情にはグラデーションがある
音楽は恋愛だけではなく、喜び、悲しみ、怒り、激しさなどさまざまな感情が込められています。よく「情熱的」を「激しさ」と混同したり、また「切迫感」を「激しさ」と混同したり、悲しみの曲を怒りの感情で弾いたり、激しくないものを激しく弾いてはどこかに辻褄が合わず無理が出てしまうことがあります。さらに、たとえば悲しみの感情と言っても、極端な例としては「悶えるほどの悲しみ」なのか、それとも「花が枯れるのを見て悲しい」と思うのか、のような度合いの違いがあります。感情にはグラデーションがあるということです。お腹が空いた場合でも「飢えている程の状態」、「小腹が減った」では意味が異なりますね。
海外から来学する先生から、特に日本の学生は楽譜の言葉の理解が曖昧で決定的な曲のキャラクターが伝わらないことが多く残念だ、と指摘されるのはこのようなことも含まれると思います。
楽譜を読み込む際、たとえばフォルテが書かれているとして、その作曲家にとってのそのフォルテは、どの位の段階のものなのか、作曲家が違えばフォルテの表情も変わってきます。
いかに感情のグラデーションを感じるかは、普段の生活で自分自身の感情を意識してみることがとても大切なことだと思います。一人で楽器と向き合い、音にしてみたり、日本語で感情の程度別に言語化したり。
自分の感情を音で表現できたらベストですが、自分の感情の程度を表現できる日本語の語彙を増やすのもとても有益なことだと思います。自分のいろいろな感情の機微を人に伝えられることは音でも言葉でも、とても幸せなことだと思います。
読書、美術、演劇、映画からもたくさんの感情を積極的に体験してほしいと思います。
― 第2回は、今回のコンクール受賞者の皆さんに共通する特徴からお話を伺いたいと思います。続く。